【第214号】あれから3年が経つ

1.何が変わったのだろうか

 また、複雑な思いが蘇る時期がやってきた。その時、家族と東北にいた人間(筆者も含めて)は、様々な思いでこの日を迎える(筆者は、その後すぐに新潟に来てしまったので、時間は永遠にそこで止まってしまっているが)。
 復興需要による各種工事の発注は未だになくならず、活況を呈している。景気対策の一環として予算がついているからでもある。でも、冷静になって全体を見渡すと、未だに手付かずの地域もある。計画が立たないもの、予算がついても資材や人の手配が間に合わず進まないもの、様々な要因があるが、進捗が思わしくないものはまだまだある。
 そして、日本全体の雰囲気はどうだろうか。3年前のあの一体感や使命感はどうなっただろうか。この国の形へ思いはどうなっただろうか。

2.孤独から救えるのか

 筆者自身、新しい地に来て、仕事上での繋がりでの人脈は増えたし、SNSを通じての人脈も広がったが、果たして本当にそれで十分なのかどうか。
 よくよく考えてみると、自分の人生について、あるいは世の中のタブーについて、意見の対立を恐れることなく、意見を戦わせたり、自分の弱みを見せて、泣きついたり、相談したりする人間がいないことに気づく。人間、意外とそんなものなのである。
 果たして、社会人の中で、そういう友人や仲間を得ている人が何人いるだろうか。パワハラやセクハラが起きたとき、社内で社外で相談できる人がいるのだろうか。あきらめてしまう人がいかに多いか、想像してしまった。
 あきらめずに「SOS」を発信している人を見つけられるのだろうか。苦しいともがいている人に気づけるのだろうか。「一生懸命やっている」「まじめ」な「普通」の人の信号に気づけないのである。

3.自分は手を握り返せるか

 筆者が自分自身を振り返って感じたのは、自分がだめだと感じたとき、繋がっている周囲の人間の手を握り返せるか、である。残念ながら、今の筆者には、握り返せるぐらいお互いが信頼関係で結ばれている仲間はいない(あるいはいないと思ってしまっている)。これも気づかされたことだが、そのような仲間を作ろうとしてこなかった(見ていない)ことも事実である。「自分は強い人間である」「自分は人の相談に乗ることはあっても、相談することはない」と高を括っていたからである。
 上司が部下の仲間になることは難しい。しかし、部下のプライベートを拘束して、仕事人間にしてしまえば、いつかはそのツケは会社が払うことになる。そういう人間関係を作る時間や機会を社員に作らせることも重要なのである。