【第140号】「競争」のあるべき姿とは

1. ライバルの存在

 自分を高めていくためには、いい意味でのライバルが必要となる。人間は弱いものだから、どうしても「このぐらいでいいだろう」「こんなにやるのは自分だけだろう」と思いがちである。そういう時に、ライバルの存在があると、「もう少しがんばろう」「彼はもっとやっているかもしれない」などと自分を奮い立たすことができるようになる。
 量だけの問題だけでなく、ライバルの存在は質も高めてくれる。成果物で競うこともあるし、資格取得や試験などでも競うことはできる。定期的にそのライバルと情報交換できる状況であることが望ましい。
 蹴落とすような関係だったり、足を引っ張り合うような関係では、あまりプラスにならない。

2.これまでの弊害

 現在の日本の受験制度のあり方は、どちらかというといいライバル関係が育つような環境ではない。どうしても、限られた枠を競う関係で、勝ち残り競争になってしまう。有名新学校、有名大学に入ったものが「試験の勝者」というより、極端な話し「人生の勝者」のように語られる。社会に入った段階で、すでに「勝者」と「敗者」が色分けされてしまっている。
 勝ちがすべて、負けたら一巻の終わりではないはずである。ところが、受験を苦にする学生は多い。挽回不可能という思いなのである。ただ、その状況は変わりつつあり、判断基準は崩れつつある。有名大学から一流企業に行くことが安泰(勝ち組コース)では無くなったからである。

 3.敗者との関係

 勝者がいれば、敗者がいる。敗者の健闘を称える文化、考え方がないと、いい競争は生まれない。競争して負けて、絶望感しか感じられないのであれば、競争を避けるようになってしまう。これでは、チャレンジ精神も生まれてこない。
 日本には、「負けるが勝ち」という言葉もある。相手に勝ちを譲ることが、自分に利をもたらすこともあるということなのだが、「負けてはだめだ」という強迫観念のようなものに取り付かれはいないか。
 確かに企業の中では、「成果主義」になっていて、企業における負けは「目標未達」ということになり、評価されないことである。しかし、それは“絶対評価”という価値の中だけでしかない。“相対評価”における「勝ち負け」をもっと意識すべきではないだろうか。それは、今回は勝ったけど、次は負けるかもしれない。という緊張感の中での、勝ち負けである。敗者を「明日はわが身」と知っているのであれば、その見方を変えていくべきである。