【第111号】雪のある生活

1. そこにいる人の感覚

 ここ数日(というより数週間か)新潟地方では大雪が続いている。豪雪地帯と言われる魚沼地区や十日町地区などにも仕事で行くことがあるが、想像を絶する量である。食事をした際などにそこで生活している方に話しかけてみるが、大変だねぇとは言うが、そこにはあきらめにも似た境地なのだろうか、あっけら感としたものがある。
 そうだろうね、と我々は思うが、そこに生活してみないとわからないものもある。寒さや雪道を歩く大変さは共有できるし、今年は新潟市内も数十センチ積もっているので、毎日の雪かきの大変さもほんの少しだが理解できる(彼らは数メートルの積雪と戦っている)。
 でも、それも完全には一致しない中での共感である。自分の背丈よりも高く積もった雪を屋根に登って降ろす大変さはわからない。

2. “心配”と“好奇の目”は紙一重

 雪下ろしの事故で亡くなる方のニュースも毎年のように多い。大変だな、危険だな、と感じることもある。それと同時に「すごい、こんなの見たことない」と思う部分、どんな生活になってしまうのだろう、という単純な好奇心からくる思いもある。
 以前、地吹雪ツアーなるものがあったが、地元で住んで生活している人からすれば困ったものだが、それが観光になる。大雪もこれだけニュースになるということは、それだけ多くの関心があるということであり、興味を引くということである。
 除雪の道具にしても、雪のない地域からすればみたことのないものもあるだろう(スノーダンプは雪の多い地域でないとないでしょう)。

3. 震災被害と同じ

 震災も多くの方が痛みを共有した形となっている。しかし、被災地の真ん中(仙台)にいたときも、今、そこに住んでいる方々と連絡を取り合ったり、話をしている今も感じる違和感がある。本当に自分は何を理解しているのか、何をわかったつもりでいるのか、そして周囲のいう「大変だね」はどういうことなのか、と問い続けた。
 我々は「共有した気に」なっているだけなのではないか、自己満足なのではないか、という点だ。揺れを感じ、閉じ込められ、帰宅難民になり、避難所生活をしても、なお消えない違和感。そして、その時全国から寄せられたメッセージに感じた違和感。
 人間、それだけわかり合い、協力し合い、助け合うことを共有するのは難しい。これだけ大きな衝撃的な出来事でもそうなのである。
 日常のビジネス上の必要事項を共有していくことはなお更難しい。それが前提でなくてはいけない。